エーリッヒ・フロム著『悪について』の中で一人のアメリカ人青年の話が出てくる。まだ黒人奴隷がいたころの話だ。
彼の家はとても裕福で、もちろん奴隷もいる。彼が子供のころ、黒人奴隷の子供と仲良くなっていつも一緒に遊ぶようになった。奴隷と仲良くなることについて両親はあまりよく思っていない。
両親は彼に「奴隷と遊ぶのはやめなさい」と告げるのだが、本当に大人がそう思っていて言うのならまだしも、両親も両親で人種差別はいけないことだとちょっと思っているようなインテリ家庭なので、「あの子と付き合うのはどうなのかなぁ」的なニュアンスで忠告する。
そして「あの子と付き合ってると君にも悪い影響が出るかもしれないから、もし付き合うのをやめたらお菓子をあげる」と言ったり遊園地に連れて行ってあげるというようなことを言うのだ。
本当に嫌な教育だ。
ここで彼には最初の決断が生まれる。彼はお菓子や遊園地の誘惑に負けて黒人奴隷と遊ぶのをやめてしまうのだ。
この時の状況を著者エーリッヒ・フロムはこう説明する。
『彼は自分の生を、死んでいるモノと交換した』と。
つまり、「生」というのはモノと交換できないものであるはずなのに、おもちゃとかお菓子とか遊園地っていうモノと交換したのだ。お金もいっしょである。
この時に彼の「生」は少し固まり死にはじめる。しかし彼はまだ子供なのでちゃんと息を吹きこめば、固まった「生」が息を吹き返すのだが、このような決断が数回繰り返され、手遅れになっていく。
決定的だったのは、彼が結婚をしたいと言った時だ。しかし相手の女性は身分が低いといえばいいのか、とにかく彼の家とは不釣り合いだったのだ。
このときまた両親が飴を出す。今度は半年間パリに留学してきたらどうかと言うのだ。
彼は迷うのだが、結局パリに行ってしまう。パリに半年間もいればほかの女性とも遊ぶし、誘惑もいっぱいある。お金はたんまりあるので毎日がパーティーみたいなものだ。そして彼は彼女に別れの手紙を書いてしまう。
物理学が大好きだった彼は、大学に残って研究者になろうと思ていたのだが、彼の親が政治家だったため跡を継げと言ってきた。しかし今までの決断で「生」が固まりまくっていた彼には、本当の「生」が、本当の自分の欲望がどこにあるのかわからなくなっていたので「あ~べつにいいよ」となってしまったのだ。
親の力もあり、政治家として地位も名誉も手に入れた彼だが、著者に言わせれば彼は完全に死んだ目をしており、人生においての敗北者、つまり悪に染まったのだ。
政治家であろうが金融屋であろうがなんであろうが、地位があろうが無かろうが、「生」が死ぬことが悪で、「生」を活かすことが善だとしたら、我々はそういう肩書とか地位とか社会的成功とかに目がくらんではならない。
むしろ目がくらみそうになっている若者に「違うだろ」と言ってみせるのが大人の役割のはずだ。
社会的地位があるとなんかわかんないけど良いこと言っているように聞こえるから、「そうじゃないんだよ」と教えなければならないのだ。
私はいま44歳だが、40を過ぎたあたりで明確に変わったことがある。それは10代~20代の若者に対する姿勢だ。
人生の主役は間違いなく自分自身だが、若者に対してだけは裏方に回ろうと。負けないよう支えたり、背中を押したり、ときには尻をひっぱたいて鼓舞したり、サポート役に徹しようと決めたのだ。
生意気かもしれないが勝手にそう思っている。