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差別と誇りの狭間で ―ブルガリアのロマ民族の物語―

ロマ民族——かつて「ジプシー」と呼ばれてきた人々は、ヨーロッパに数百万人存在し、その中でもブルガリアには70万人以上が暮らしているとされます(※統計には差異あり)。

「ジプシー」という呼称は、誤解と差別に満ちた歴史を持つため、近年では避けられる傾向にあります。本記事では、ブルガリアにおけるロマの歴史、社会的境遇、そして彼らが直面する課題と希望の兆しについて考察していきます。

 

 

ロマ民族の起源とブルガリアへの移動

ロマ民族の起源は、現在のインド北部(ラージャスターンやパンジャーブ)にあるとされています。10世紀ごろ、イスラム勢力の侵攻などを背景に、彼らは西方への移動を始めました。バルカン半島に到達したのは14世紀頃で、ブルガリアにもこの時期に定住が始まったと見られています。

オスマン帝国時代(14世紀~19世紀)には、ロマは特定の職能集団として重宝されました。馬の鍛冶屋や音楽家、行商人など、社会のニッチな役割を担っていましたが、一方で「異端視」されることも多く、周縁的な存在に置かれてきました。

彼らは一様ではなく、ムスリム、キリスト教徒、さらには異なる言語や文化的背景を持つ集団に分かれており、ロマという言葉が一枚岩の共同体を指すものではないことにも注意が必要です。

 

社会主義時代のロマ政策(1946–1989)

第二次世界大戦後、ブルガリアは社会主義国家となり、ロマへの政策も大きく変化しました。表向きは平等が謳われましたが、実際には文化の抑圧や同化政策が進められました。

たとえばロマ語の使用は禁止され、公教育ではブルガリア語のみが強制されました。また、定職を持たせるという名目で、彼らは工場労働などに就かされ、遊牧的な生活様式は解体されていきました。

一方で、社会主義体制下では一定の社会保障が機能していたため、教育・医療へのアクセスは改善されました。しかし、ロマは「目立たない存在」として国家の枠組みに吸収され、根本的な社会的排除の問題は覆い隠されただけとも言えます。

 

民主化以降の現状と問題

1989年の社会主義体制崩壊後、ブルガリアは市場経済へと移行しますが、この過程でロマは最も大きな打撃を受けました。職を失い、経済的に追い詰められた彼らの多くは都市周縁部のスラム地区に集中するようになりました。

代表的な例が首都ソフィア郊外の「ファクラ」地区で、インフラの整備も不十分な中、数万人が不安定な暮らしを強いられています。

教育格差も深刻で、多くのロマの子どもは貧困や差別、家庭の事情で学校を中退せざるを得ません。就業の機会も限られ、多くが非公式経済や物乞い、あるいは出稼ぎに頼るしかない現実があります。医療や社会保障制度へのアクセスも、事実上阻まれている例が多く、ロマは制度の「周縁」に取り残されています。

 


ブルガリア社会におけるロマへの視線

ブルガリア社会には、ロマに対する深い偏見とスティグマが根付いています。犯罪や不潔さ、怠惰といった否定的イメージが根強く、メディアもそうしたステレオタイプを再生産する傾向にあります。差別的な言動が公人によって行われても、問題視されないことさえあります。

特に教育の現場では、ロマの子どもが隔離される「分離教育(セグリゲーション)」が非公式に行われており、普通学級から意図的に排除される例も報告されています。こうした状況の中で、ロマの若者たちはアイデンティティの葛藤に直面し、自らの可能性を信じられなくなることも少なくありません。

 

抵抗と希望:ロマコミュニティの中から

しかしながら、希望が全くないわけではありません。ブルガリア国内では、ロマ自身による教育支援や人権啓発活動が各地で始まっています。たとえば、「ロマ教育基金(REF)」や地元NGOは、奨学金制度や家庭訪問を通じて子どもたちの就学率を上げる努力をしています。

また、ロマ出身の文化人や政治家も徐々に登場しています。音楽家のキシ・ボシや詩人のフロリカ・スタンらは、ロマ文化の豊かさと誇りを社会に訴え、ロマの若者たちに自信とモデルを与えています。

 

EU加盟とその影響

2007年にブルガリアがEUに加盟すると、ロマ問題も国際的な注目を集めるようになりました。EUは加盟国に対し、「ロマ統合戦略」の策定と実行を求めており、教育・雇用・医療・住宅の各分野で支援プログラムが導入されました。

しかし、実際にはその多くが形骸化しているとの批判もあります。地方行政の能力不足や汚職、制度設計の不備により、EUの資金がロマコミュニティに届かない例が多発しています。

結果として、一部のロマはドイツ、フランス、イギリスなどへ出稼ぎに向かいますが、そこでも差別に直面し、「国外差別」という新たな問題を抱えることになります。

 

まとめ:多文化共生への道のり

ブルガリアにおけるロマの歴史と現状は、差別と排除の連続であった一方で、希望の芽も確実に芽吹いています。差別はロマだけの問題ではなく、社会全体が「多様性をどう受け入れるか」という問いでもあります。教育制度の改革、メディアの責任、そして何より人々の意識の変化が求められています。

多文化共生をめぐる課題は日本においても深刻であり、技能実習生や外国人労働者の増加に伴い、言語・文化の壁、差別、劣悪な労働環境、教育や医療へのアクセス不足といった問題が顕在化しています。

制度が十分に整わないまま多国籍社会が進行することで、排外感情や社会的分断が広がりつつあり、放置すれば共生どころか対立や孤立を生む危険性があります。

一方で、日本社会における多文化共生の議論には、外国人による凶悪犯罪や組織犯罪への関与といった現実的な問題も存在します。こうした事件が発生すると、メディア報道や世論によって外国人全体への不信感や偏見が助長されやすく、多文化共生に対する反発も強まります。

きれいごとだけでは語れないこの現実は、共生社会を築く上で「治安・法制度の整備」と「差別的な一般化を避ける冷静な対応」という、バランスの取れた視点が不可欠であることを示しています。

この記事を読んでくださった皆さんには、ぜひ考えていただきたいのです。「異なる文化や生き方を持つ人々と、どう共に暮らしていくか」。その問いへの答えは、ブルガリアだけでなく、私たち全員の未来に関わっています。

 

 

sikemokux.com

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