1920年代、ある一人の女性がアメリカからロシアを目指して徒歩で旅に出た――。この一見荒唐無稽な話は、リリアン・アリングという東欧出身の若き女性の実話である。
車も飛行機も当たり前の現代において、国境どころか大陸を越えて歩くという選択は、想像し難い。だが、彼女は実際にそれをやってのけた。
なぜ彼女は歩いたのか?どこへ向かったのか?その旅の果てに何を見たのか?本記事では、歴史に埋もれかけたリリアン・アリングという女性の足跡を辿る。
- 謎の女性、リリアン・アリングとは
- 旅の始まり:ニューヨークから西へ
- 北の荒野へ:ユーコンとアラスカの旅
- ベーリング海峡の彼方へ
- 錯綜した情報
- なぜ彼女は歩いたのか:動機と背景
- その後と現在:リリアン・アリングの足跡
- まとめ:女性が越えた国境と時間
謎の女性、リリアン・アリングとは
リリアン・アリングの詳細な生年や生い立ちは、記録がほとんど残っていないため不明である。だが、1920年代初頭にニューヨークに住んでいたこと、東欧、特にロシアやポーランド、あるいはバルト三国の出身とみられていることは、複数の証言からわかっている。
彼女はアメリカに移住していたが、祖国に強い郷愁を抱いていた。言葉の壁や文化の違い、あるいは職を見つける困難さに疲れ果てていたのかもしれない(いわゆるホームシック)。アメリカでの生活が彼女にとって幸福ではなかったことは、彼女の行動が雄弁に物語っている。
1926年、リリアンはある決意を固める。「祖国に帰る」。それは飛行機でも列車でも船でもない、「徒歩で」ロシアへ向かうという決意だった。下記は実際の写真。
出典:Wikipedia
旅の始まり:ニューヨークから西へ
彼女の旅は、ニューヨーク州から始まったとされる。リリアンはまず西へ向かい、カナダを経由してアラスカに至る「歩き旅」のルートを選んだ。これは、当時の新聞報道や人々の証言によって裏付けられている。
途中、彼女はワシントン州を通過し、ブリティッシュコロンビア州の町々を徒歩で移動した。カナダの郵便局員や鉄道職員の記録に、彼女が地図と杖(正確には護身用の鉄棒)を持ち、真剣な眼差しで歩いていた姿が残っている。
旅の途中で助けてくれた人々もいたが、彼女は基本的に一人で進んだ。働きながら資金を得たり、時には自給自足で凌いだりしていた。
リリアンはしばしば「正確な地図を見せて」と頼んだ。彼女の目的は明確だった――「ベーリング海峡を越えて、ロシアに帰る」。
北の荒野へ:ユーコンとアラスカの旅
旅は次第に過酷さを増していった。ユーコン準州では、冬が近づき、気温が急激に低下する中、リリアンはフラッシャー・クリークやドーソンといった町を通過していった。地元新聞『ドーソン・ニューズ』には彼女の旅路が小さく報じられている。
写真に写っている犬は、ジム・クリスティという男性が「一人じゃさみしいだろう」と言って彼女に譲ったとされている。名前はブルーノ。しかしブルーノは獣用に仕掛けられた毒餌を食べてしまい命を落としている。アリングはブルーノを剝製にして一緒に旅をしたという。
彼女は一時期、ユーコン川沿いの町でボートを購入したとも言われている。このボートで彼女は川を下り、アラスカ州へと向かった。道なき森や凍てつく湿原を進みながら、リリアンは誰の助けも借りず、ただ一人で北極圏を目指した。
当時のアラスカは、現在とは比べ物にならないほど未開で、野生動物、悪天候、氷河の危険が旅人を待ち受けていた。それでも、彼女は諦めなかった。
ベーリング海峡の彼方へ
1929年、彼女はついにアラスカのノーム(Nome)という町に到着した。これは、彼女の旅の最終地点として記録された最後の場所である。ノームは、アメリカ大陸の最西端に近く、ベーリング海峡を挟んでロシアのチュクチ半島と向かい合っている。
ここから先に進んだのか、記録は定かではない。ベーリング海峡は冬季に凍結し、当時であれば徒歩で渡ることが技術的に不可能ではなかったが、極めて危険だった。いくつかの証言では、彼女が現地のエスキモー(イヌイット)に助けられて小舟で渡ったという説もあるが、確証はない。
ノームの町で彼女を見たという最後の証言を最後に、リリアン・アリングの姿は歴史の中に消えてしまった。
錯綜した情報
1943年、あるイヌイットが回想した情報によると、北米最西端に近い集落テラー付近でアリングらしき女性を見たという。
「その女性はわずかな荷物が入った荷車のようなものを引いていた。荷物の上には犬の剝製が乗っていた。しかしその女性の足跡は増水した川のほとりで消えていた。かわいそうに…」
彼女は増水した川に流されてしまったのか?
しかし、1975年に出たトゥルーウェストマガジンという雑誌にアリングの旅が紹介され、その中に興味深い投稿があった。
その投稿主によると、彼が1965年にロシア人の友人から聞いた話として、そのロシア人が1930年に体験した出来事が紹介されていた。
その友人がノームの西240㎞のロシア領プロビデニヤの海岸にいた時、浜辺で数人の役人が誰かを尋問している場面に出くわした。尋問されていたのは3人のイヌイット男性とコーカサス人の女性。
その女性は「自分はアメリカで部外者だった。ここまで必死に歩いた。故郷に向かう、私はようやく帰った」というようなことを話していたらしい。
その女性はリリアン・アリングだったのか……それともこの話自体が作り話なのか……今となっては誰にも分らない。
なぜ彼女は歩いたのか:動機と背景
リリアンの旅の動機は、いくつかの仮説がある。
最も広く信じられているのは「祖国に帰りたかった」という理由だ。アメリカでの移民生活が苦しかったこと、家族と離れて暮らすことに耐えられなかったことが、彼女の旅の原動力になったのではないかと考えられている。
一方で、「ソビエト体制への憧れ」や「政治的理想」によって旅立ったという説も存在する。1920年代のアメリカでは、共産主義に傾倒する移民も一定数おり、彼女が社会的変革を求めてロシアに向かったという仮説も根強い。
また、精神的な孤立や、自らを試すような冒険的欲求があった可能性も否定できない。彼女の旅は単なる「帰郷」ではなく、ある種の内面的な巡礼でもあったのかもしれない。
その後と現在:リリアン・アリングの足跡
リリアン・アリングの消息は、ノームで途絶えた。彼女がロシアに到達したという証拠は見つかっていないが、一方で否定する証拠もない。チュクチ半島に渡った後の記録が見つかれば、歴史の空白は埋まるかもしれない。
近年、彼女の物語は再評価されつつある。カナダやアラスカのローカル・ヒストリーの研究者の間で関心が高まり、ノンフィクションやドキュメンタリー番組の題材として取り上げられることもある。
その足跡を辿る試みは、旅という行為そのものの意味を問い直す行為でもある。
まとめ:女性が越えた国境と時間
リリアン・アリングの物語は、国境という概念がまだ「歩いて越えられるもの」であった時代の象徴である。情報もGPSもない時代、女性が一人で数千キロの距離を歩いたという事実は、それだけで驚嘆に値する。
彼女の旅は、移民としての苦悩、女性としての制限、そして個人の自由を求める強い意志の結晶だった。彼女の姿は、私たちに問いかけてくる――「帰るべき場所とは何か?」「歩くことでしか見つけられないものがあるのではないか?」と。
リリアン・アリングの旅は終わったのか、それとも今もどこかで続いているのか。答えは出ない。だが、彼女の足跡は、時を超えて私たちの心に問いを投げかけ続けている。