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生きているのがつらい人へ

数年前、相方に勧められて写経を始めたのですが(年に数回しか写経しませんけど…)不思議と心が落ち着くし、集中力アップにもなるのでおすすめです。

やり方は簡単で、ネットで般若心境の写経用紙なるものが売っているので、それをなぞるだけです。もちろんフリーハンドで書いてもいいですが、そんなことできる人なかなかいないでしょ?

何かに悩んでいる方や『無』になりたい人は騙されたと思ってやってみてください。必ずなにか気づくことがあるはずです。

せっかくなので、最強のお経と言われる「般若心経」の現代語訳を記しておきたいと思います。先ずはちゃんとした訳を、次に自分用のざっくばらんな訳を残しておきます。

普通の訳

全知者である悟った人に礼したてまつる。

求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があることを見極めた。

しかも彼は、これらの構成要素が、その本性から言うと実体のないものであると見極めたのであった。

シャーリプトラよ。

この世においては物質的現象には実態が無いのであり、実体がないからこそ物質的現象でありうるのである。

実体がないと言っても、それは物質的現象を離れてはいない。また物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。

このようにして、およそ物質的現象というものは全て、実体がないことである。

およそ実体がないということは物質的現象なのである。

これと同じように、感覚も、表象も、意思も、認識も全て実体が無いのである。

シャーリプトラよ。

この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。

生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。

それ故にシャーリプトラよ。

実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意思もなく、認識もない。

眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、形もなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。

眼の領域から意識の識別の領域に至るまで、ことごとくないのである。

悟りもなければ迷いもなく、悟りが無くなることもなければ迷いがなくなることもない。

こうしてついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというに至るのである。

苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制してなくすことも、苦しみを制する道もない。

知ることもなく、得るところもない。

それ故に、得るということがないから、もろもろの求道者の智慧の完成に安んじて、人は心を覆われることなく住している。

心を覆うものがないから恐れがなく、顛倒した心を遠く離れて永遠の平安に入っているのである。

過去、現在、未来の三世にいます目覚めた人々は全て、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目覚めを悟り得られた。

それ故に人は知るべきである。

智慧の完成の大いなる真言、大いなる悟りの真言。

無常の真言、無比の真言はすべての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真実であると。

その真言は智慧の完成において次のように説かれた。

ガテー・ガテー・パーラガテー・パーラサンガテー・ボーデイ・スヴァーハー

行けるものよ、行けるものよ、彼岸に行けるものよ、彼岸に全く行けるものよ、悟りよ、幸あれ。

ここに智慧の完成の心が終わった。

 


なんか分かるようなわかんないような、ちょっと難しい訳ですよね。ただそんな私でも「仏教は哲学である」ということだけはわかります。

次はこれをもっとかみ砕いてわかりやすくした訳です。自分用に書いときます。

 

超現代語訳

超スゲー楽になれる方法を知りたいか?

誰でも幸せに生きる方法のヒントだ。もっと力を抜いて楽になるんだ。

苦しみも悲しみも全てはい加減な幻さ、安心しろよ。

この世はむなしいもんだ、痛みも悲しみも最初から空っぽなのさ。

この世は変わりゆくものだ。苦を楽に変えることだってできる。汚れることもあれば背負い込むことだってある。

だから抱え込んだものを捨てちまうことだってできるはずだ。

この世がどれだけいい加減かわかったか?

苦しみとか悲しみとかそんなものにこだわるなよ。

見えてるものにこだわるな。聞こえるものにしがみつくな。味や香りなんて人それぞれだろ?

なんのあてにもなりはしない。

揺らぐ心にこだわっちゃ駄目さ。それが『無』ってやつだよ。

生きてればいろいろあるさ。辛いものを見ないようにするのは難しい。

でもそんなものその場に置いて行けよ。

先のことはだれにも見えない。無理して照らそうとしなくていいさ。見えないことを楽しめばいいだろ。

それが生きてる実感っていうやつなんだよ。

正しく生きるのは確かに難しいかもな。でも明るく生きることは誰にだってできるんだよ。

菩薩として生きるコツがあるんだ。苦しんで生きる必要なんてないよ。楽しんで生きる菩薩になれよ。

全く恐れを知らなくなったらロクなことにならないけどな。 適度な恐怖だって生きていくには必要なものさ。

勘違いするなよ。非情になれって言ってるんじゃない。夢や空想や慈悲の心を忘れるな。

それができれば涅槃はどこにだってある。

生き方は何も変わらない。ただ受け止め方が変わるのさ。

心の余裕を持てば誰だってブッダになれるんだよ。

この般若を覚えとけ。短い言葉だ。意味なんて知らなくていい、細かいことはいいんだよ。

苦しみが小さくなったらそれで上等だろ。

噓もデタラメもすべて認めてしまえば苦しみは無くなる。そういうもんなのさ。

今までの前置きは全て忘れてもいい。でもこれだけは覚えておけ。

気が向いたら呟いてみろ。心の中で唱えるだけでもいい。

いいか?耳かっぽっじってよく聞けよ。

『唱えよ、心は消え、魂は静まり、すべてはここにあり、すべてを超えたものなり』

『悟りはその時かなうだろう。全てはこの真言に成就する』

心配すんな、大丈夫だよ。

 


この「般若心経」について1つ疑問があります。

なぜこのお経を死者に唱えるのでしょうか?確かに「彼岸に行けるものよ」と言っているのでおかしくはないのかもしれませんが、わざわざ死者に対してこの世の真理を説くのでしょうか?

むしろ生きている人たちに対して悟りを説いたものだと思うのですが…

調べれば納得のいく答えが見つかるのかもしれませんが、それだと面白くないのであと20年くらいは自分で考えてみたいと思います。

大乗仏教のエッセンスをわずか262文字に凝縮したこの「般若心経」。宇宙の真理を知る助けになるかもしれません。

因みに私は、この世は修行の場だと思うことにしています。だから辛いことや苦しいことがいっぱい起こるのは当たり前。

苦しみに耐え、この世を見事に全うすることができたら、あの世で「お疲れさん」と言ってみんなに迎えられると思っています。そのために歯を食いしばって生きます。でも強大な障害に真正面からぶつかるだけでは自分が先に壊れてしまうので、受け流す技術も必要です。

「押してダメなら引いてごらんなさい」といったところでしょうか。言葉は良くないかもしれませんが、逃げることも時には必要です。私は今まで逃げることの方が多かったですけど一応44歳まで生きて来れました。根がぐうたらなのでホント情けない…

夏になるといつも思います。「川にぷかぷか浮きながら下流まで流されるだけでお金貰えないかなぁ」って。

「アラブの石油王が突然現れて油田くれないかなぁ」って。

そんなこと考えながらなんとかやってます。

 

最後にトリビアを1つ。

映画好きには有名なアメリカの「パラマウント・ピクチャーズ・コーポレーション」。日本では「パラマウント映画」の名前で知られていますが、この「パラマウント」と言う英語の単語、実はサンスクリット語の「ハーラーミーター(波羅蜜多)」がヨーロッパに伝わって「パラマウント」となったそうです。意味は「最高」です。

皆さんが少しでも心穏やかに生を全うできますように。ありがとうございました。