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小林秀雄から見えてくる「伝統」

小林秀雄(1902~1983)が書いた「故郷を失った文学」(昭和8年5月)の中で彼はこう言っている。

私の心にはいつももっと奇妙な感情が付きまとっていて離れないでいる。言ってみれば東京に生まれながら東京に生まれたということがどうしても合点できない。また言ってみれば自分には故郷というものがない。というような一種不安な感情である。

〔中略〕私の心なぞは年少のころから、物事の限りない雑多と早すぎる変化のうちにいじめられてきたので、確乎たる事物に即して後年の強い思い出の内容をはぐくむ暇がなかったといえる。

〔中略〕ドストエフスキイの『未成年』に描かれた青年が西洋の影響で頭が混乱して、知的な焦燥のうちに完全に故郷を見失っているという点で私たちに酷似しているのを見て、他人事ではない気がした。

昭和8年の時点でこれを言っているわけです。そして彼は『伝統』という言葉は使っていない。私は近代日本人が「伝統とはこうあるべきだ」とか「こういうものが伝統だ」ということに違和感を覚える。

まず伝統を失っている不安感から足元を見て一個一個紡ぎ合わせていくほかに、近代日本人が伝統を取り戻すなど傲慢な感じがするのです。

だって洋服を着てビルに囲まれて、古文は辞書を見ながらじゃないと読めなくなってるんですよ。それで「伝統とはこうだ」なんて言われても説得力がないですよね。

何かの儀式で、これは右向きに置く、これは左向きに置くと言われたとき、「なぜ右向きに置くのですか?」、「なぜ左向きに置くのですか?」と聞かれて答えられる人間がどれくらいいるのでしょうか。

ほとんどの場合「そういう決まりだから」という答えが返ってきます。物事には道理があって、本来心の道理に基づいて作られた制度も時がたつにつれて独り歩きを始め、やがて人は道理を忘れ制度に従うこと、あるいは逆らうことのみに終始していくようになります。

 


つまり「知らないことは知らない。知っていることは知っている。」というのを認めることこそが「知る」ということだと思うんです。

だから「伝統」は分からないというところから始めるのが誠実な態度だと私は思います。でも「伝統なんて無くてもやっていけるよ」というのは嘘です。それは殆ど自己なんかなくてもというか基軸が無くてもやっていけると開き直ってるようなものだから。

 

昭和11年「文学の伝統性と近代性」の中で小林秀雄はこう言っています(ここで初めて小林は「伝統」という言葉を使っています)。

まず独断的な自分の直観力を設定してこれだけを信用する。作品にどんな企図が隠れていようが、どんな理想が盛られていようが、それは作者がただそんな気になっているものとして一切信用しないことにする。

ただ出来栄えだけをかぎ分ける。物質の感覚が、或いは人と人が実際に交渉するときの感動がどんな程度に文章になっているか。そういうところだけを嗅ぎ分ける。するとそこに、消極的なものだが文学に対する社会の洒落気のない制約性が得られる。

〔中略〕社会の制約性は伝統の制約性にほかならぬ。民衆とは伝統の権化である。僕は伝統主義者でも復古主義者でもない。何に還れ、彼に還れと言われてみたところで僕らの還るところは現在しかないからだ。

そして現在において何に還れと言われてみたところで自分自身に還るほかはないからだ。こんなに簡単で而も動かせない事実はないのである。

簡単に言うと自分の直感を一番大事にしろということです。口では御大層なことを言っている人間でも裏ではろくでもない人間はいっぱいいます。難しいことではありますが、社会的地位の高さや言っていることで人を判断するのではなく、直感で嗅ぎ分けろといっているのです。

ということは、直感、自分自身の現在と足元を見て、ここから聞こえてくる言葉がいったい何によって聞こえてくるのかに耳を澄ましたときに、ようやくそこに「伝統と言うしかないようなもの」が浮かんでくるだろう?と小林は言っているわけです。

これが「伝統発見」だと思います。