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沖縄戦とは何だったのか──住民犠牲と“捨て石”の真相

沖縄戦とは、太平洋戦争末期の1945年に日本の南端・沖縄本島を舞台に展開された大規模な地上戦である。日本国内で唯一、一般住民を巻き込んだ本格的な地上戦が行われ、多くの民間人が犠牲となった。この戦いは、単なる軍事的な戦闘を超え、住民を巻き込む「総力戦」として記憶されている。

「日本軍に殺された住民は本当にいたのか?」「沖縄は捨て石にされたのではないか?」こうした問いは、戦後80年近く経った今も、沖縄の人々の記憶と感情を揺さぶり続けている。本稿では、沖縄戦の実態とそれに伴う歴史的論点を掘り下げ、真実に迫る。

 

 

沖縄戦の経緯と全体像

1945年3月26日、米軍は沖縄本島の周辺諸島に上陸し、4月1日には本島中部の読谷・北谷に大規模上陸を果たした。当時、沖縄には日本陸軍第32軍が駐留しており、約10万人の兵力が本土防衛の最前線として配置されていた。

米軍は、沖縄を占領し、そこを拠点に日本本土空襲や上陸作戦の準備を進める意図があった。一方、日本軍は持久戦によって時間を稼ぎ、本土決戦に備えるという戦略を取っていた。

しかし、これは第32軍と大本営の間に不統一があったらしく、大本営としては特別攻撃隊(特攻)を主力とする航空攻撃によって連合国軍に大打撃を与えて、有利な条件で講和を結ぼうとしていたらしい。

こうした中で戦局は長期化し、沖縄本島は南北に分断され、戦闘は南部へと追い込まれていく。

6月23日、日本軍の組織的戦闘が終結し、沖縄戦は事実上の幕を閉じた。しかし、その代償として、島は焦土と化し、民間人を含め20万人近い命が失われた。

 

戦死者の実態と内訳

沖縄戦の犠牲者数は、資料によって若干異なるが、概ね以下のように見積もられている。

  • 沖縄県民:約94,000人

  • 日本軍(本土からの応援部隊含む):約94,000人

  • 米軍:約12,000人

中でも注目すべきは、一般住民の犠牲者が非常に多いことである。砲爆撃、艦砲射撃、飢餓、病気、自決、巻き添えなど、死因は多岐にわたる。また、「ひめゆり学徒隊」や「鉄血勤皇隊」など、学校に通う10代の生徒が看護要員や戦闘補助員として動員され、多くが命を落とした。

民間人が「兵士」と「住民」の境界を失い、戦場に放り込まれた沖縄戦は、まさに“総力戦”であり“地獄”だった。

 

日本軍による住民被害はあったのか?

沖縄戦を語る上で避けて通れないのが、日本軍による住民への加害行為である。戦時中、日本軍はスパイ活動を警戒し、避難民に対して厳しい取り調べや処刑を行った事例が報告されている。

特に議論を呼んできたのが「集団自決」の問題である。南部戦線に追い詰められた住民の中には、家族や地域ごとに自決を選んだ人々がいた。後年の証言によれば、一部の住民は日本軍から手榴弾を渡され、自決を“命令された”と証言している。一方で、軍の直接的命令はなかったとする見解もあり、教科書検定をめぐって議論が続いてきた。

しかし、命令の有無にかかわらず、軍が住民に「捕虜となるくらいなら死ね」という価値観を押しつけ、結果として多くの民間人が命を絶ったのは否定できない歴史的事実である。

 


具体的な住民被害

沖縄戦における日本軍の住民に対する加害行為は、戦場の混乱や戦略的な思惑、そして軍の思想体系(「生きて虜囚の辱めを受けず」など)と深く関係しており、いくつかの記録や証言が今も語り継がれています。以下に代表的な実例を紹介します。

 

1. スパイ容疑による住民処刑

  • 米軍の進行にともない、日本軍は住民が敵に情報を流すことを極度に警戒しました。その結果、「スパイ行為」を疑われた住民が、証拠もないまま殺害されるケースが多発。

  • たとえば、北部の国頭村などでは、洞窟に避難していた住民が日本兵にスパイと疑われ、銃剣や刀で殺害されたという証言があります。

  • 八重瀬町(旧東風平村)では、住民十数名がスパイ容疑で銃殺された事例が記録されています。

 

2. 避難民に対する追放・殺害

  • 沖縄本島南部では、避難民が日本軍の壕に入ることを拒否され、外に追い出されて米軍の攻撃に遭うケースが多発。

  • ある壕では、泣き声が敵に聞こえるとして赤ん坊を殺すよう命令されたという証言が複数存在します(このような命令は「軍命」か「指導的判断」かで議論がありますが、実際に殺害された例があることは複数証言で裏付けられています)。

 

3. 集団自決(強制集団死)と手榴弾の配布

  • 座間味島や渡嘉敷島では、住民に手榴弾が配られ、日本軍の指導のもとに集団自決が行われた。

  • 特に有名なのが渡嘉敷島事件で、部隊長の命令で住民に手榴弾が渡され、数百人が命を絶ちました。

  • その後の裁判(1990年代~2000年代)では、軍命の有無が争点となりましたが、裁判所は「軍の関与・誘導があった」とする判決を出しています。

 

4. 食糧や物資の強制徴発と暴力

  • 住民が隠していた食糧を日本兵が発見し、暴力や脅迫で奪ったという証言も多く残されています。

  • 時には住民が抗議すると、殴打・殺害されることもあったといいます。

  • 南風原町では、食料を取り戻そうとした青年が「抗命」として斬殺されたという証言があります。

 

5. 壕内での殺害や処刑命令

  • 沖縄戦末期、南部の壕(ガマ)に避難していた住民に軍が「壕を譲れ」と命じ、出ていくよう強制した事例も。

  • ある壕では、避難民の中に「声がうるさい」などの理由で手榴弾を投げ入れられたという証言もあります。

 

補足:証言の信憑性と検証の課題

これらの加害行為については、生存者の証言・戦後の裁判記録・当時の公文書などに基づいていますが、同時に「記憶の変容」「証言の正確性」についての検討も必要です。2000年代には「教科書検定問題」(集団自決から「軍の命令」を削除)をめぐる論争もありました。

しかし、現地での継続的な調査・聞き取りにより、軍の関与を示す証言や物証は現在も蓄積され続けています。沖縄戦を総体として理解するには、軍だけでなく住民の視点も欠かせません。

 

沖縄は「捨て石」にされたのか?

沖縄戦をめぐって語られるもう一つの論点が「捨て石論」である。これは、日本政府や大本営が、沖縄を本土決戦のための“時間稼ぎ”の戦場として利用し、犠牲を承知で見捨てたのではないかという指摘である。

実際、第32軍の命令は、沖縄を死守するというよりも、できる限り持久戦を展開し、米軍の進行を遅らせることを目的としていた。そのため、住民の避難はほとんど考慮されず、戦場の中で軍民混在のまま戦闘が続けられた。※これについては先述した通り、大本営と第32軍との間で不統一な状況にあった可能性もあります。

戦後、沖縄出身の作家や活動家は「我々は捨て石にされた」と訴え、その思いは今なお地元に根強い。一方で、当時の日本全体がすでに追い詰められていたという指摘もあり、この問題は感情と戦略、両面からの冷静な検証が求められる。

 

 

捨て石論に対する反論

1. 沖縄に10万人規模の日本軍を配備していた

  • 沖縄が本当に「捨て石」にされていたなら、これほど多くの兵力や軍事資源を投入するはずがない。

  • 第32軍は約10万人規模の兵員を有し、重火器や地下壕、陣地を含む防衛設備も本格的に構築されていた。司令部は首里に置かれ、持久戦を前提とした大規模な作戦が展開された。

  • 日本政府(大本営)は沖縄を「防衛の要衝」として重要視しており、放棄する意思はなかった。むしろ、本土決戦を前に、米軍の侵攻をできる限り遅らせる「戦略的要所」として維持しようとしたとも考えられる。

  • 戦艦大和も沖縄に向かっている。

 

2. 南西諸島からの民間人の疎開政策

  • 民間人の保護も全く無視されていたわけではない。

  • 沖縄戦が本格化する前の1944年夏から、沖縄本島および周辺離島から九州や台湾などへの住民の疎開が奨励・実施されていた(ただし、途中での船舶沈没による犠牲はあった)。

  • 国家として一定の住民保護策を講じていた証拠であり、意図的に住民を犠牲にする計画があったとは言い切れない。

 

3. 沖縄の持久戦に対する日本軍上層部の戦略的価値認識

  • 沖縄戦は「捨てる」のではなく、「本土防衛(有利な条件で講和を結ぶ)の時間を稼ぐ重要な一戦」として位置づけられていた。

  • 実際、沖縄戦は90日間も続き、米軍の戦力にも大きな損耗を与えた。

  • 軍事的には沖縄を犠牲にして「時間を稼ぐ」という意図があったとしても、それは捨てたのではなく、「必要な拠点」として使っていた、という戦略的正当性を主張する立場もある。

 

4. “捨て石”という言葉自体が戦後に生まれた比喩である

  • 「捨て石」という言葉は、戦時中に使われた軍事用語ではなく、戦後の政治的・感情的表現である。

  • 「捨て石」という表現が文献上に出てくるのは主に戦後であり、被害を受けた地元住民や遺族、知識人の中で広がったもの。軍や政府の公式文書に「捨て石」的な表現は見られない。

  • この言葉は軍の戦略そのものではなく、住民感情を象徴する言葉である。したがって、「捨て石にした」か否かの議論には慎重な検証が求められる。

 

5. 戦後の政治的利用による“捨て石”論の強調

  • 沖縄の「捨て石」感情は、戦後の政治的・自治権運動とも結びついて拡大・定着した側面がある

  • 沖縄の返還運動や、米軍基地反対運動の中で、「沖縄は常に本土から切り捨てられてきた」との感情が蓄積し、「捨て石」論が政治スローガン的に使われることもあった。

  • 歴史的事実と、戦後の政治運動による感情の強化とは分けて考える必要がある、という視点。

 

総合的な補足

「捨て石にされた」という認識は、戦争の実体験を経た沖縄の人々の感情や記憶に根差しています。一方で、それを国家戦略として意図的に「見捨てた」と言える明確な文書・命令は存在しないため、完全な証明は難しいのが現状です。

したがって、「沖縄に軍事的価値を置き、資源も投入していた」ことを根拠に、「見捨てたのではなく、むしろ重要拠点として戦った」と考えます。

沖縄根拠地隊司令官・大田実少将は自決する前、海軍次官宛てに「……沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ(沖縄県民はこのように戦い抜いた。県民に対し、後世、特別のご配慮を頂きたくお願いする)」と打電しています。

 


沖縄戦が残したもの

沖縄戦がもたらしたのは、単なる物理的破壊ではない。戦後の沖縄社会は、深い心の傷を抱えながら復興してきた。現在、糸満市にある「平和祈念資料館」や「平和の礎」など、戦争の記憶を伝える場が設けられ、毎年6月23日は「慰霊の日」として県民が犠牲者を悼む。

一方、戦後沖縄には米軍基地が集中し、「戦後も戦争は終わっていない」と言われる状況が続いてきた。教育現場では、集団自決をめぐる記述が教科書から削除・復活するなど、歴史認識をめぐる論争も続いている。

沖縄戦は、単なる過去の悲劇ではなく、現在の沖縄と日本社会の在り方に直結する「生きた記憶」なのである。

 

戦後の沖縄

戦後の沖縄では、アメリカ軍の統治下(1945年〜1972年)および日本復帰後も続く基地の存在によって、多くの被害・事件・事故が発生しました。以下に代表的なものを紹介します。

【1】占領初期(1945年~1950年代):土地接収と人権侵害

■ 強制的な土地接収

  • 米軍は戦後の占領初期に、住民が疎開中・避難中だった土地を「銃剣とブルドーザー」によって強制接収。

  • 住民の同意なく家屋を破壊し、広大な土地が基地として転用された。

  • 農民の生計手段が奪われ、「基地の中でしか働けない」構造が生まれた。

 

■ 女性に対する性暴力(未記録事件多数)

  • 戦後混乱期に、米兵による女性へのレイプ事件が頻発。多くは泣き寝入り、あるいは報道・記録されなかった。

  • 例えば、1945年には恩納村での集団強姦事件などが伝えられている(非公式記録多数)。

 

【2】1950~60年代:反基地運動の始まりと激化

■ 伊江島土地闘争(1955年~)

  • 米軍が村人の耕作地を訓練地として接収。農民は「乞食になるか死ぬか」と訴え、座り込み・行進を行った。

  • 指導者の阿波根昌鴻は平和運動の象徴的存在に。

 

■ 6・30事件(1959年)=宮森小学校ジェット機墜落事故

  • 嘉手納基地から飛び立った米軍の戦闘機が、石川市の宮森小学校に墜落

  • 小学生11人を含む17人が死亡、200人以上が負傷。

  • 米軍の対応は不誠実で、日本政府も積極的に補償交渉に出なかった。

 

【3】日本復帰前夜(1960~70年代):ベトナム戦争と“基地の島”

■ ベトナム戦争の兵站基地化

  • 米軍は沖縄をアジア最大級の前線補給基地として使用。

  • 毒ガスやナパーム弾が沖縄に貯蔵・整備されていたことが、後に明らかに。

 

■ コザ暴動(1970年)

  • 米兵による車両事故が引き金となり、沖縄市(旧コザ市)で市民数千人が暴動を起こした。

  • 米軍車両70台以上が炎上。背景には、度重なる米兵犯罪と不処罰の積み重ね。

 

【4】日本復帰後(1972年以降):事件は続く

■ 沖縄国際大学米軍ヘリ墜落事件(2004年)

  • 普天間基地所属のヘリが宜野湾市の沖縄国際大学に墜落

  • 幸い死者は出なかったが、事故現場を米軍が封鎖し、日本の警察すら立ち入れなかったことに県民が激怒。

 

■ 米兵犯罪(殺人・レイプ・暴行)

  • 1995年:沖縄少女暴行事件
    米兵3人が12歳の少女を暴行。沖縄県内外で大規模な抗議運動が起こり、米軍基地問題が国際的に報道された。

  • 他にも、米兵による殺人・窃盗・飲酒運転による死亡事故など、数えきれないほどの事件が起きている。

 

【5】現在まで続く構造的問題

■ 騒音・事故・環境汚染

  • 嘉手納基地、普天間基地周辺では航空機騒音による健康被害が報告されている。

  • また、PFAS(有機フッ素化合物)による水質汚染も近年問題に。米軍は調査や情報公開に非協力的。

 

■ 日米地位協定の壁

  • 米兵や関係者は、日本国内であっても日本の法律の適用が限定的

  • 事故や事件を起こしても、本国送還や不起訴になる例が多く、住民の不信感を増幅。

戦後の沖縄では、米軍の物理的支配(基地・兵力)と法的優遇(地位協定)によって多くの住民が苦しめられてきました。その被害は単なる「事件」ではなく、構造的な問題であり、今日まで解決されていない点が多くあります。

 

沖縄戦から何を学ぶのか

沖縄戦は、軍事的には敗北の連続であったかもしれない。しかし、その記憶と教訓を未来へと伝える力は、今も失われていない。国家の論理の中で翻弄された住民たちの姿は、戦争の本質を問い直す鏡であり、戦争を防ぐために不可欠な歴史の証言である。

戦争の記憶が風化しつつある今こそ、沖縄戦が示した問い、「命とは何か」「国家とは何か」「個人はどう生きるのか」を、私たちは改めて考えなければならない。

最後に、私の友人が25年前に体験した話を一つ。

その友人をMとします。Mは沖縄出身で高校卒業と同時に沖縄を出て派遣社員として関東の企業で働いていました。私は別の会社で働いていたのですが、共通の友人がいたので何度か遊んだことがありました。

私もMも映画が好きで、たまに一緒に観に行っていたのですが、ある日映画を観終わって互いに感想を言い合っているときに、Mが少しだけ神妙な顔をして話し始めました。

Mが今の会社で働き始めて数日後、突然社長に呼ばれて指定された会議室に行ったそうです。そこには年配の社長が一人だけいたそうです。

なにを言われるのかと思ってドキドキしていると、社長は突然Mに土下座をして「沖縄の人には本当に申し訳ないことをした。申し訳ない!」といって謝罪したそうです。

なにがなんだかわからず戸惑っているMに対し、社長は自分が沖縄戦に参加していたこと、そこで住民に対し軍人が行った非道な行為について自責の念にかられていたことを話し、Mが沖縄出身だということを知って、いてもたってもいられず謝罪したということでした。

当のMは「いや、俺に謝られても……」みたいなことを言っていましたが、あれから25年たった今、Mももう40代、あの出来事の捉え方に変化があるのか……それともすっかり忘れてしまっているのか……少し気になります。

 

 

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